2011年11月19日

二章 "思想"

二十歳から学び始め、たかだか数年であるが中身はさて置き
常人より時間だけは費やしてきたと思う。

ありきたりな表現ではあるが知識に関しては本当に新品のスポンジのような頭だった。

そして始めに学び始めたのは何故かキリスト教であった。

それは知識欲に火を付けてくれた友人の着けていたCHROME HEARTSの十字架に心を奪われ
高価な代物だが幸運にも当時の女から誕生日に頂いたその十字架が端を発する。






十代の頃からDragon Ashを聞き、歌い育った自分はボーカルの降谷建志のぶら下げていた
大きな十字架に何処か惹かれていたものがあった。

その女から頂いた十字架を大切に我が子のように扱い、着けていた。

しかし次第に以前から感じていた大きな矛盾に心が動かされていった。


自分はキリスト教信者では非ず、そもそもキリスト教を知らない。


そのような経緯から始めにキリスト教を学び始めたのだ。

ここで論じようなどとは思わないし、そもそもそこまで理解していない。


その言葉の如く理解できなかった。


その時は知識が無いので神は自らの心の中に宿っていた。

当時覚えた"偶像崇拝"や手品のようなことを信じろという言葉、それこそ信じられなかった。

当時から"神"とは精神や思想であると頑なに信じていたからであろうが
これは違うと直感で感じたのだった。

十字架を身につけることは止めたが大切に飾ってあり、それは原点を象徴している。

次に学び始めたのが仏教であった。

ヘルマン・ヘッセと言う素晴らしいドイツの小説家の著書を数冊読んでいて
シッダールタという仏陀(釈迦)が仏陀になる前の幼名がタイトルの本を読み、興味が湧いた。

幾つか仏教にまつわる本を読んでいて五木寛之の著書に出会えた。

これは良かった、ただの教書では無く、現代と照らし合わせた仏教論を展開していた。

そもそも自分は様々な宗教や教えに対して"救われる"為に学んでいるのではなく
自らの疑問や知識への渇望を解決させるためであったからだ。

仏教では念仏を唱え、キリスト教では祈っていれば救われるのだから。

五木寛之氏の著書は自分の知識に大いなる刺激を与えてくれた。

ただもっと根本的な純粋な依って立つものでは無いと思った。


そして神道を学ぶ。


順序からいってもごく自然で、且つあらゆる面で自らの思想と呼応し
もっとも優れた道であると心から感じた。

御存知の通り、神道に教義は無い。

神道概説で体系を学び、
ことばの古代生活誌で古代日本の概念を学んだ。

日本人として日本固有の宗教、或いは"慣習"に打ちひしがれたのは
本当に快感であった。

この時こそ強烈に自らを日本人として意識した瞬間はなかった。

それまでは小説といえばもっぱら洋書が中心だったが、小説も日本文学を中心に読むようになった。

そしてその流れは現在につながり、大和魂を基とし、洋を活かす思想で生きている。







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